映画「スカイ・クロラ」

押井守の最新作映画「スカイ・クロラ」をDVDで観た。
浮かんでくる思いはたくさんある。ただ、それをつかんで上手く言葉にしていくことができない。こういうとき、自分の考えを上手く外に出せたら素敵なんだろうな、と思う。
キルドレは僕たちなんだ、と思う。僕たちだと思っていいんだと思う。
キルドレは大人にならない子どもという設定だ。ただ、映画を観ている限り、彼らが本当に大人にならないのか、彼らの時が本当に止まっているのかは分からない。映画で描かれている期間は短いし、彼らの寿命も短い。そこには「時が流れて他の人々は老いていくのに、彼らはその姿をとどめ続ける」というような描写はない。映画から提示された彼らは大人にならないという設定を、観ている僕たちが受け入れるだけだ。
僕は、キルドレという設定が重要なのかは分からない。そこに、映画を観る前に想像していたほど鮮烈なものは見いだせない。そしてそれは、映画全体に言えることかもしれない。ショーになった戦争、戦争を請け負う会社、戦争に従事する大人にならない子どもたち。それらを描く時、グロテスクさを浮かび上がらせて、より強烈な印象を持たせることもできたと思う。映画を観る前に漏れ聞こえてくる事前情報から、僕は多少仰々しいものを想像していた。でも、スカイ・クロラはそうじゃなかった。思っていたより、もっと穏やかだった。そこで描かれる生や死は鮮明だけれど鮮烈ではなかった。
キルドレは、SFチックな設定の中で僕らとは違った環境の中を生きている。でも果たして、キルドレと僕たちの間にある違いはそんなに大きいものだろうか。彼らが提示するテーマは、そっくりそのまま僕らにも当てはまるのではないだろうか。
主人公のカンナミは、キルドレは大人になれないのではなく、ならないのだと言う。少なくとも彼は、大人になる必要を感じていない。「明日死ぬかもしれないのに、大人になる必要はあるのか」と。でも、明日死ぬかもしれないのは、キルドレでなくても同じはずだ。僕たちだって、明日死ぬかもしれない。確かに、彼らほどその確率は高くないし、日常の中に死の影を感じることも少ない。でも、考えてみると、確かに僕たちだって明日死ぬかもしれない。
でも僕たちは、キルドレと違ってみんな等しく大人になっていく。大人になる必要性を感じていようがいまいが、自動的に大人になっていく。でも、大人になりつつある僕は、前述のカンナミの問いに答えを返すことができない。改めて問われると、確かに大人になる必要はないかもしれない。でも僕は、大人になっていく。
そしてカンナミの問いは、生きることへの根本的な疑問につながっていく。「誰だっていつか必ず死ぬのに、なぜ生きるのか。生きているのか」という。
この問いは、誰もが一度は考え、悩むものだと思う。果たして、この問いに対して明確な答えを探し当てた人というのはいるのだろうか。ある時点で、答えらしきものを得た人はいるかもしれない。でもその答えは、ずっとその人を納得させ続けることができるのだろうか。
ただ、答えを持っていなくても、人はみんな生きているし、気づいたら大人になっている。スカイ・クロラは現代と少し違う世界を描いた映画だけれど、それが浮かび上がらせるのは僕たちのそばの何かだと思う。描かれた世界が日常でないとしても、映画が浮かび上がらせるのは日々を生きる僕たちの何かだ。映画を観ることで、僕たちはそれがそこにあることに改めて気づき、意識する時間を持つ。映画というのは多かれ少なかれそういうものだと思う。
この映画を観て感じたことがすぐに僕の何かを変えるかは分からない。すぐに、糧になるものではないかもしれない。でも、観て良かったと思う。