理解というものは、つねに誤解の総体にすぎない

タイトルは、村上春樹の何かの文章から。なるほどいいこと言うなと思う。いつか自分も、こういったことを肺の底からずしんと理解できるようになりたい。
なにかをしゃべったり、文章に書いたりするとき、自分の考えていることを言葉にして外に出すことになる。今、ここに書いている文章みたいに。
こういう行為はだいたい自発的なもので、誰かのためにやっているわけではない。ここにこういうつまらないことを書くのも、自分のためにやっている。だけど、こんなことをしておきながらなんだけど、僕はこういうことをするのが時々嫌になる。特に、素早く何かを考えてそれを表現するのが。会話とか。
陳腐な言い方だけれど、表現しようとする端から言葉がこぼれおちていく感じがする。外に出そうとすると、自分が3倍くらい馬鹿になったような気がする。自分が相手に理解してほしかったことと相手が理解してくれたことが必ずずれる。誤解が生じる。
そんなことは日常茶飯事で、多かれ少なかれ誰でも感じることだし、誤解の部分から会話はふくらんだり進んでいったりするものかもしれない。完全に理解が共通していたら、会話は終わってしまう。でも、一発で理解されないとき、そこに大きな齟齬が生じたとき、僕はがっかりして、いらっとして、そして落ち込んでしまう。
「あーあ、まただよ。なんで理解してくれないんだよ。くそっ。いや、相手は悪くない。僕の説明がヘンテコだった。誰かが悪いとすればそれは僕だ。なんで僕はこんなに馬鹿なんだろう」と。
何かを表現しようとするとき、表現しようとしている内容は自分の中では理解されている。もちろん表現しながら理解していくときもたくさんあるけれど、その出発点みたいなものはある。これを表現しよう、という意志がある。
トンチンカンな会話の原因の大半は、その出発点を共有できないところにあると思う。表現しようとする人は、その出発点にいたるまでの思考が自分の中にあって、それを基礎に外に出そうとする。ただ、それを受けとる人はその基礎を分かっていない。少なくとも、相手が何を基礎に言葉を発しようとしているかを認識していない。だから、表現しようとする人は、その基礎も共有できるように言葉を外に出さなくてはいけない。それを忘れて、省略してするっと表現してしまうと、相手は混乱する。そして、えいやで理解しようとして、誤解が生まれる。
考えをうまく言葉にするというのは、難しい。言葉で考えているはずなんだけれど、それを外に出そうとすると、とたんに変になる。
話は変わるけれど、僕は傲慢で偉ぶる人間である。自分でもいけないと思って反省するのだけれど、それでもやっぱり気がつくと偉そうに振る舞っている。言葉に出さなくても、心の中はクリティサイズで一杯である。何か話をききながら、文章を読みながら、やれやれ愚かだなあと心の中で首を振ったりしている。
でも、そんな自分が愚かだと思っている他人は、何かを表現しようとしているからそう見えているだけでかもしれない。本当は僕が認識しているより3倍くらい賢いのではないか、と思う。たまたま、しゃべったり、書いたり、表現することが苦手だから、外に出てくるものが3分の1になっているのかもしれない。少なくとも、そんな中で表現しようとしているだけ、ただふんぞり返っている自分よりましなんじゃないか、とも思う。こういう思考で、少しは僕も謙虚になるといい。
ところで、ここまでの文章を読んでみると、あいかわらず支離滅裂だなと思う。つらつらと書いているだけで、話の落ちもない。やれやれである。